三四会の事業
連合三田会大会
連合三田会大会とは
連合三田会大会は、慶應義塾同窓生社中が年1回一同に会する同窓会である。これは、社中交流を奨励してこられた福澤諭吉先生が、広尾の別邸に卒業生の塾員を集めて度々開催された大園遊会に端を発する。大正時代に入ると、「同窓会」は次第に「三田会」とその呼称を変え、地域のほかに勤務先、職域別の三田会、卒業年度別の三田会もでき、1930年(昭和5年)には各地、各種三田会の横断的な集まりを持つ気運が生まれ、「連合三田会」の名称のもと塾員が集まるようになった。
第二次大戦での中断を経て、1960年代には卒後塾員が10万人に近づき、義塾社中の恒久的な同窓組織の設立が検討され、慶應義塾社中、塾員、三田会相互の結束の強化、母校慶應義塾の発展に貢献すること等を目的として、1963年に改めて新組織「連合三田会(1967年に慶應連合三田会と改称)」が結成された。この頃から毎年、秋の日曜日に日吉で全塾員が集う慶應連合三田会大会が開催され、卒業10年ごとの塾員(卒業40年、30年、20年、10年)に大会運営の当番を委嘱・依頼して実行委員会が組織されるようになった。
いわゆる同窓会長の役割である連合三田会会長には、2013年5月に比企能樹前三四会長(37回)が医学部出身者として初の第9代連合三田会会長に就任、重責を担われた後、2020年3月に第10代連合三田会会長として菅沼安嬉子前三四会副会長(47回)にバトンタッチされている。
医学部同窓会である三四会は、連合三田会傘下に属する三田会の一つであるが、連合三田会大会においては、救護部会を担当し、長年に渡り参加塾員の安全確保に努めてきた。しかしながら、救護部会の活動はその業務内容からどうしても医学部塾員のみに任されており、他学部塾員との連合三田会大会を通じての交流も疎遠で、いわゆるボランテイアでの参加という側面が否めず、自ずと参加意欲も沸いてこない状況であった。そんな中21世紀に入り、もっと積極的に連合三田会大会に参加することで慶應義塾における医学部のエンティティを確立すべし、という時の吉野肇一三四会副会長(44回)の発案で、連合三田会大会への実行委員以外の三四会員の積極的参加を図ることとなった。
当初は、三四会員が集える部屋を確保し医学部新聞やホームページで積極的参加を呼び掛けるといった活動だったが、他学部にもアピールできる活動として、2010年度の連合三田会大会から三四会主催の講演会を開催するに至り、他学部出身塾員の講演会参加者は年々増加傾向にある。講演会などのイベント開催においては、イベント部会との交渉が必要であり、他学部実行委員との円滑な交流が不可欠であるが、医学部はそれでなくともキャンパスの違いから他学部塾員との学生時代の交流が疎遠なことに加え、卒業年次が2年ずれることから卒後10年毎の塾員で構成される大会実行委員では、三四会員にとって他学部の大会実行委員はほぼ知らない塾員ということになる。そこで救護部会担当学年は従来通りであるが、イベント開催においては、2012年より入学時が同じ、すなわち卒業年次が他学部より2年早い学年を担当とし、少しでも大会実行委員間で交流を密にできるよう組織を改編した。
イベントに関しては講演会の内容を含め担当学年に一任しており、これまで講演会の他、健康相談や2015年から小中学生を対象に手術手技を模擬体験できる「ブラックジャックセミナー」や「ドクターに挑戦コーナー」などを開催し好評を博している。またこれらとは別に三四会が管理運営する赤倉山荘模擬店を2015年より出店し、赤倉山荘を利用する塾員増加に努めている。妙高市のご当地キャラクター「ミョーコーさん」も毎年登場し、子供連れの塾員に好評である。
医学部講演会内容
2010年(学年担当はなし)
2011年(講演会を60回生が、救護班を62回生が担当)
2012年(講演会を63回生が、救護班を61回生が担当:以降同様の組合せ)
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年
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